【56】じっか

わたしには、もう帰ってくるなと両親に言われてしまった実家がある。 理由はどうであれ、その言葉は胸の奥に深く沈んでいて、今も時々痛む。 電話ならしてもいいらしい。 だから、たまに両親の声を聞けると、ほっとする。 それでも、玄関の匂いや、家の中の空気に触れることはもうできない。

それでも実家の近くには、どうしても会いたい人がいる。 家の前に住んでいたおばちゃん。 今年で86歳になる。 幼稚園の先生だったおばちゃんは、わたしが小さかった頃、よく遊んでくれた。 ただ遊んでくれただけじゃない。 困ったときは助けてくれたし、大人になってからも、変わらず頼りになる存在だった。 優しさがそのまま形になったような人だった。

父は72歳、母は71歳、弟は30歳になる。 家族の時間はそれぞれの場所で流れている。 わたしだけが、少し離れた場所からその流れを眺めているような気がする。 実家には帰れないけれど、あの家の前に立って、おばちゃんに会いたい。 ただ顔を見て、「元気?」と笑い合いたい。 そんな願いが、ふと胸にこみ上げる。

両親から電話がかかってくることもある。 その声を聞くと、やっぱり嬉しい。 帰れない場所でも、声だけは届くのだと思うと、少し救われる。

本当は、たまには実家に帰らせてもらいたい。 玄関を開けて「ただいま」と言いたい。 けれど、その願いは胸の中でそっとしまっている。 叶わないかもしれないけれど、消えることのない願いだ。

帰れない家と、帰りたい人。 その間で揺れながら、わたしは今日も生きている。