㊹『わたしのピアノ』

ピアノの前に座ると、いつもは世界が整う。 鍵盤の白と黒が、まるで道しるべのように並んでいて、指先はその上を自然に歩いていく。 昨日までは、そうだった。
けれど今日、キーボードに触れた瞬間、何かが違った。 指が思うように動かない。 まるで知らない誰かの手を借りて弾いているみたいに、勝手に別の場所へ行ってしまう。 音がずれて、気持ちもずれて、胸の奥に小さなショックが落ちる。
「どうして」 その問いが、鍵盤の上に落ちては跳ね返る。 昨日まで弾けていた曲が、急に霧の中に消えてしまったようで、手探りをしても見つからない。 音楽が好きなのに、好きだからこそ、うまくいかない日は心が痛む。
幻聴の呪いが、また私の世界をかき乱す。 本物の音と、頭の中の音が混ざり合って、境界線が曖昧になる。 集中しようとすればするほど、音が増えていく。 その混乱の中で、指先はさらに迷い、鍵盤の上でさまよい続ける。
「誰かに教えてもらいたい」 そんな気持ちがふっと浮かぶ。 ひとりで抱えるには、今日の混乱は少し重い。 習い事をすれば、きっと道が見えるかもしれない。 でも、習い事にはお金がかかる。 またお金を使ってしまうのではないかという不安が、背中をそっと引き止める。
音楽は私にとって逃げ場であり、支えであり、喜びでもある。 それなのに、今日はその音楽が遠く感じる。 指が迷うだけで、こんなにも心が揺れるなんて思わなかった。
今、私は混乱の真ん中にいる。 でも、その混乱の中にも、音を求める気持ちは確かに残っている。 たとえ今日は弾けなくても、明日また鍵盤に触れれば、指が少しだけ戻ってくるかもしれない。 そんな小さな希望を、私はまだ手放していない。


